私のプロフィール   JA3−3446 松岡 均

 DX! 見知らぬ国、見知らぬ島、そして地図にも載らないような絶海の孤島からの電波に心引かれたのは約30数年前でした。

 SWLを始めたのが1962年、そしてJA3−3446として開局したのが1965年2月10日、最初5球スーパー+BFO付に7MHzダイポールでJA相手にリポートを出しQSLを、コンファームしJCC−100をと夢見ていたものでした。

 しかし、なぜDXに興味を持たざるを得ない事になったか、それは当時ローカルのJA3−3946(現JA3NDM)がSWLを初めてまだ少しというのに早くもJCC−100をコンファームしアワードを取ったと知った時のショツクは大変なものでした。
もうこれではだめである後に残るはDX全カントリーをコンファームするのみ!! 

 1967年以後は,来る日も来る日もただDXと言う気持ちでワッチし1969年4月に100カントリーをコンファームしました。

 ところが、病気で入院が決定、さあ大変なことに成りました。  
 この頃はサンスポットの最盛期でもあり5バンドDXCCの開始、そしてGusその他の大DXペディションが行われる予定になっていました。  
そこで1970年6月、病院の関係者と交渉の結果、特例として夜中もヘッドフオーンでワッチするのならいいとの許可が取れました。
 しかし、入院中も午前3時、4時までワッチするというあまりの異常さに病院側もおどろき10月までで止めて欲しいとのクレイムがつき泣き泣きQRT!!

 そして退院後の1971年5月やっと200カントリーをコンファーム

200をコンファームしたものの300までの道のりは大変なものでした。
270までワッチする3年間、聞こえてくるカントリーはニユーなのですがカードがコンファーム出来ず毎日のように郵便局のバイクを待つていました。

 やはりSWLで最大の悩みといえばQSLコンファームが思うように出来ないことにあるでしよう。
当時、私のような無銭家は海外からのニュースを購読するような事もできず、今のようにQSL・Infoがすぐにわかると言うような状態ではなかった為にQSLも大DXペディション以外のほとんどがビユーロー経由でコンファームしました。 
 今になってもそのくせがなおらずビューローに送っていますが珍カントリーからのQSLもかなりコンファームしています。

  そしていよいよ1976年12月28日、戦艦バゥンティ号の反乱で有名なピトケァン島からのVR6TCで夢にまでみた300カントリーをコンファームし、オーナーロールへ一歩近付きました。

 この30数年間に一番強く印象に残るQSLカードといえばやはり大DXペディションといわれるものがあり、DXペディションの歴史が私のDX歴史といえるでしょう。

 全てのQSLにいろいろの思い出もありますが、年代の大DXペディションを対象にして私のQSLを紹介しましょう。

 1960年代を通じて最高の大DXペディションは、69年2月、今でも世界中のDXerから俗にマルペロ級といわれているこの島からのHK0TUでした。 勿論JAからは初めてのカントリーでした。(この島は、10年に一度しかQRVしない大変な所です。) 69年12月JAには10分間だけJAにオープンしたココス島のTI8PE/TI9

 1970年代は、コンディションも最高、DXペディも花盛りで眠れぬ夜が続きました。 その中でも70年5月から10月に掛けてのDXペディは、現在でもないのではないかと言われるほどのDXペディラッシュでした。ガスのインド洋巡り、FH0VPVQ9/A/FVQ9/A/AAC9A/BRAC0A/GR、当時としてはオーナーロールのほとんどの局がQSO出来ていないと言うヨーロッパの鎖国アルバニアからのZA2RPSなど、数えあげればきりがありませんでした。 そして、70年代を語るには、どうしても78年3月のクリッパートン島のQRVも特筆すべきでしょう。FO0XA,FO0XB,FO0XC,FO0XD,FO0XFのコールでJAにニュー・カントリーを与えたDXペディでした。

これはDXペディではありませんがヨルダンの国王夫妻がJY1,JY2でQRVしたのも話題でした。 しかし、70年代には、最大のショックというよりも20年間DXをやってきた私にとって最大の汚点ブーベ・ショックがありました。

 アフリカ沖の絶海の孤島ブーベ島から3Y1VCがQRVするというニュースは以前から知っていましたが、78年12月から79年2月QRV期間中、聞く時間、聞く時間、聞こえてこない、日本で入感した時間には私の都合で聞けないと言う苦い経験をしました。 

 1980年代は、日本人のDXペディが盛んになりJA3KWJのアフリカ、JJ1TZKのオセアニア、JA2KLTのインド洋など、珍カントリーが日本語で交信できるようになり、20年前には想像もつかない時代になっています。

 そして、80年代最後のDXペディと言われた87年1月、ピーターT世島からのQRV、3Y1EE,3Y2GVで私のDXも残すは7O(南イェメン共和国)、3Y(ブーベ島)の2カントリーとなりましたが、1989年12月29日(金)午前6時50分にブーベ島からの3Y5Xで全カントリーをCFMしました。

しかし皆さんもごぞんじの通りDXはこれで終わってしまう訳でもなくこれから先もっと大変なカントリーにチャレンジしなくてはなりません。
今日も明日もゴールのないゴールを目指してワッチを続ける事でしょう!!!

最後にこの30年近くを振り返ってまず第一に思う事は,70年代はオン・エアーでの「昨日14195Khzで3CIEGがすごいパイルでしたょ」というようなインフォメーションがよく聞けSWLにとっても,初級DXerにとってもバンド全体が貴重なニュース源になっていました。
ところが、80年代になってから特にひどいのが430MHzネットや電話ネットでDXerが自分たちだけのグループでニュースを交換するような風潮が出ていて,田舎でDXer一人もいない私のようなところではそれを耳にすることすら出来ず非常に残念な時代でした。
90年代になってからはインターネットの普及でDX情報もQSLインフォも全てがネットで見られるようになってしまい、自分の耳で聞くことすらないのが非常に残念です。

そして第二には,近頃のDXerの高級リグ,アンテナによりSWLリポートの価値がなくなりつつあるのではないでしょうか。
それだけにリポートを出すほうも手を変え品を変えながら印象ずける事も必要な時代になってきているとおもいます。
 もっとひどいのはSWLカードを送ると「その時間には貴局とはQSOしていません」のコメント付で返送してくる日本のアマチュア無線局もあり,少しずつSWLに対しての価値感,認識がなくなっていくような気がして寂しいかぎりです。

みなさんも一度初心に返りませんか,DXペディションに対するあのスリリングなパイル・アップを第三者の立場になりながら,だれがJAでのファースト・エバーになるかを想像しながら聞くSWLに。
私がSWLを30数年間あきずにやってきたのはそのスリリングなシーンがこたえられない魅力なのです。

ビューロー経由でCFMしたカントリーとQSL